« ノンシュガー蜜豆かん | トップページへ | あの世はあの世で忙しい »

死について考えずにいると・・・

2011年08月22日

先日のある新聞の読者投稿欄で、次のような内容の記述がありました。


69歳の主婦です。
年を取るのは、なんとつらいことだろう、というこで、
「掃除機をかけるだけで、もう息切れする。きれい好きなのに、風呂場やトイレの掃除がおろそかになってきた。朝、元気なうちにがんばると、午後は悲惨なほど体力がなくなる。
一段と息が苦しかった日、夫に不安を訴えると『この年まで生きてこられたから、もういいよ』と言われた。夫は禅寺の住職の孫。さすが、諸行無常を心得ている。しかし、『死んでもいいよ』とはむごい。


暗い部屋で一人、考えた。『安心して逝きなさい』との言葉は、優しさか。ならば、潔く四国八十八カ所を歩き続け、空を見ながら昇天しよう。『明日準備をして、次の日に遍路へ旅立つ』と夫に告げた。


覚悟を決めて怖い物なし、と思えた。しかし、倒れた私を捜す子どもへの迷惑や、残った夫の不名誉を考え出すと心配になった。」


この女性は結局、常識的なところに考えが戻り「私は心も体も当分は健康のようだと感じた」。
そしてご主人は妻の気持ちを心配して、後日普通に四国にドライブ旅行に行くことになり、「悲壮な決意は、楽しい旅行の話に変わっていた」とのことです。


この文章を読んで、2つ感じる点がありました。


一つ目は、「これまで『死』について正面から考えたことがないと、何かの拍子で考えざるを得なくなった際に、極端に走ってしまうのだな」ということ。
69歳といえば、親世代を見送ることはもちろん、自身もがん・心筋梗塞・脳卒中などで、いつ命が危ない目に遭っても全くおかしくない年齢です。
それが、体力低下という、より温和な症状で死の不安を感じるようになったということは、これまで一度も、大病や大事故にも遭わずに生きてこれたということ。
(ついでにいうと、がん検診で「要精密検査」の報告も受けたことがない、ということでしょう。「要精密検査」との通知が来ただけで、「もし本当にがんだったらどうしよう。介護を要する親は、まだ自立していない子供は、残された夫は、その後どうしたら・・・」などと、千々に心が乱れるものです。もっとも、定期的にがん検診を受けていれば、の話になりますが。)
しかしこうした、「既に自分が手にしている幸運」は、なくしてみないと、いかに恵まれていたかにも気づけないというのが、たいていの人間の性ですから、仕方ありません。


そして、精神世界関係のテーマについて探索しようとするとき、日本では、まずはレールが確立されている「お遍路」へ、ということになるのですね。
団塊の世代が一斉に定年退職しているここ数年、お遍路に関心が高まり、その世代向けの雑誌などにも頻繁に特集されています。


二つ目は、栄養療法を知らないと、人生後半のQOL(人生の質)がいかに下がるか、ということ。
生活に支障が出るほどの易疲労の原因は様々ありますが、これといった病気にかかってないとすると、長年の栄養不足の蓄積、特に最近10年間の食生活の質が落ちてきていることが疑われます。
特に日本の高齢者には、「年を取れば食欲も落ちてさっぱりしたものを好むようになるし、量が減ってもそれで体にはちょうど良いのだ」という観念があって、ごはんに味噌汁、漬物や野菜の煮物、あるいはうどん程度で食事を済ませてしまいがちです。


そうすると体内のタンパク質が減り、鉄の吸収量や活用力が低下するので、息切れ、すぐ疲れる、あちこちが痛い・しびれる・めまいが出る・・・といった、「内科等に受診しても異常なしといわれてしまうが、生活に支障が出る、がんこな症状」が続くことになるのです。


栄養が体内に十分に供給されていると、身体はまだまだ、大いに活躍可能です。
例えば、若いころからテニスが大好きだったのに、70を過ぎてからは膝痛のためあきらめていた男性が、栄養療法をがっちりやって、今ではまた毎日のようにテニスコートで走り回っている、という方もおられます。
既に乳がんになり、それが骨盤に転移したため立ったり歩いたりが困難になったため車いす使用になった50代の女性も、栄養療法を行うにつれ車いすから離脱できるようになった例などもあります。


人生の後半~晩年にかけての心と体の両方をベストに保つための努力と、その結果としての知識の獲得は、本当に自分の身を助けるのです。


書いた人 浜野ゆり : 2011年08月22日 07:26