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『白い巨塔』ブックレビュー
2009年10月26日
久しぶりの読書感想文です。
ですます調よりもこちらの方が(言葉の流れとして)スムースに表現できそうなので、今回は下記のようにしました。
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何を今さらと思われるかもしれないが、『白い巨塔』を先日、読了した。
これまで何度も映画化、テレビドラマ化された、あまりにも有名な作品。
中には韓国俳優によるものまであったようで、大筋はいつのまにか耳にしていたものの観たことはなく、きちんと原作を読んだこともなかった。
しかしふとしたきっかけで、表紙カバーが破れたような文庫古本を手にする機会があり、全5巻の真ん中、第3巻から「面白ければめっけもの」という、お試しの気持ちでページを繰り始めた。
はまった。
仕事柄、医療界がテーマであるゆえの興味はもちろんあるが、他にもいくつか、非常に惹かれる要素がある。
細かいところからいうと、まずその文章。
さすがにしっかりと、そしてきちんとした日本語。久しぶりに、言葉の旨味をかみしめるような文章であった。
インターネット更には携帯が通信の大部分を占めるようになってきてから、文章が「軽く、短く、さわやか&面白く」があたかもベストであるかのような風潮になってきて、エッセイや小説もそういうものが目立つなか、久々の「手堅く、重厚長大」な文章は痛快でさえあった。
また、社会人になって20年以上も経つと、(古典・古文はともかくとして)普通に現代小説を読んでいる限り「これってどういう意味?」と国語辞典を調べに走ることはめっきり少なくなるが、今回は何箇所か気になる言葉や漢字遣いがあり(例えば「蒼惶として」など)、そんなちょっとした勉強の楽しみも感じられて、楽しかった。
この小説で、「大名行列」と呼ばれる、大学病院での教授回診が一般に知られるようになったが、そうしたものを含む、大学病院の日常をリアルに描写したところを読んでいると、自分が卒後数年間、大学病院で勤務していた頃のことを思い出す。
卒後1年目の研修医時代、内科で(もちろん先輩医師と共に)ある患者さんを受け持っていた時期の、ある教授回診のときである。
その患者さんは個室に入院しており、小康状態でベッド上でテレビを見ていた。
教授が入室すると、すぐ後ろに付き従っていた先輩(受け持ち医ではない)2人が、先回りしてベッドサイドにダッシュし、ものも言わずにいきなりテレビを切ってしまったのである。
ベッドサイドでは、患者の担当医がカルテやレントゲン等を手元に出してすぐ教授に報告できるよう、担当患者の部屋が近づくと主治医は「行列」の前方へ出て、教授のすぐ後ろに控えるようにしている。
そして順番が来るまでには患者を仰向けに寝かせ、病衣(ガウン)の前をはだけさせて教授が直ちに診察できるようにする(もちろん病状により、座位などの体勢にすることもある)。
いずれにしろ多くの場合、医師は患者さん本人よりも教授の意向を気にしており、そんな風潮はおそらくまだかなり残っていることだろう。
そうしないと、自分の身の安全が危うくなるからである。
たとえば外科の某先輩は、ある部位のがんを専門としていた。
当時彼は40歳前であったが、その部位のがんについて、従来の広範囲の切除法でなく、部分切除をしましょうと、何度も教授に進言していた。
欧米など医療先進国で既に10年単位の研究が続けられてきて、部分切除の方が患者の負担が少なく、かつ予後も再発率が高まることはなく、広範囲術式と同程度あることがはっきりしてきたからで、既に部分切除方式が国際的な新たな「標準」術式になってきていたからである。
ところが当時定年近い年齢の教授は全く聞く耳持たず、その先輩が何度も主張すると、仕事を干され、ついには医局を追われるも同然の扱いを受けることになったのだった。
また、更に遡ること約1年、学生時代の臨床実習で産婦人科を回っていたときにも驚くことがあった。
臨床実習では、学生5-6人ごとに班が決められ、順に各科の見学をする。
そこで外来や病棟での診察のようすを見せてもらったり、会議室などで小講義を受ける。
当時は卒業前に自分の専門科を決める制度であったから、この学生時代最後に行なわれる病院での実習は、実際の各科の様子を肌で感じることのできる、非常に貴重な機会であった。
さて産婦人科実習のとき、がんの検査のために、ある患者さんが経膣超音波検査を受けるために検査室に入り、私たち学生グループも同行した。5人のうち、私以外は全員男子学生であったが、この日は他の患者につく者もおり、検査室に入ったのは私を含めた3人ほどであった。
今回の検査は、患者を婦人科用の内診台に横たわらせ、筒状のプローブ(超音波発信器)を膣に挿入し、子宮や近辺の臓器の異常がないかを調べるものである。
腹部の表面から調べるよりも、より細かく検査できるという利点がある。
部屋には超音波検査機を囲んで2人ほどの男性医師が検査とその読影のためにいた。
私たち学生も加わり、ただでさえギャラリーが多くなって落ち着かない環境であったが、その他にも問題な点があった。
こうこうと照らさせたその部屋の中で、患者さんが脱衣する場所には1枚のついたてがかろうじてあるものの、側面からの視界をさえぎるものがない。部屋は狭いので、そこにも男性が立っている。
まるでドアの外れたトイレで用を済ませなくてはならないときのような恥ずかしさを感じる状況だ。
たまらなくなり、そばにあったバスタオルを見つけてそれを縦に広げ、患者さんが脱衣するのを外からも私自身からも見えないようにした。
それでも、脱衣してからも機械のある所までは2mほどあり、もしバスタオルがなければ下半身をさらしたまま、医師や学生たちの前を通ってそこまで歩いていく形になる。
そんな屈辱的な状況なのに、他の医師たちは何も問題に気づいていないらしく、患者さんがうつむきながら検査台に到着すると、何事もなかったように検査を始めたのだった。
あの検査室は、さすがに今はもっと改善されているだろうか?
そうであることを祈るばかりである。
さて小説の内容に戻ると、主人公は胃がん特に噴門がんが専門で、手術、治療、そして大きなテーマの1つである医療裁判の内容が詳しく描写されるが、その大部分は、昭和40年前後発表の作品なのにほとんど古さを感じさせない。
もちろん私は外科医ではないので、外科専門の人から見れば「現代はここが違う」などの差異はわかるのだろうが、少なくとも一般的な描写、用語、説明は実に正確だ。
それゆえになおのこと、当時との大きな変化――がん患者への告知が「なされないのが普通で、それが患者への配慮である」という「常識」が繰り返し出てくることでは、時代を感じさせる。
そしてこの作品を貫いている最大といって良いであろうテーマは、人間の「聖と邪」、これが一人の中で同居すること、そして何かをきっかけにどうしようもなく「邪」が肥大しながらも、一縷の「聖」が最後まで残っている希望…そうした人間の性をこれでもかとばかりに濃厚に描写している点だろう。
主人公は「悪人」だが、彼なりの苦悩の歴史、決意、母親や子供たちへの愛情もまたあり、そして自分の否は決して認めないながら、どこかで残る罪悪感ゆえの動揺や不安感も克明に描写される。
それに比べると、現代の「悪人」像は、変わってきている。むろん全てではないが、被害者に自分が与えている苦悩への実感のなさ、つまり共感性の希薄さが目立ち、それは実際の殺人事件などの犯人にも散見されるようになった。
もちろん主人公の悪行は決して認められるものではないが、自分が行なったことへの後悔や不安、相手への怒り等々…といった、なまなましく複雑な心の動きに、人間らしいリアルな存在感を感じたのだった。
書いた人 浜野ゆり : 2009年10月26日 14:53