妄想としての「危険な情事」
2005年07月06日
1987年公開の映画「危険な情事」は、浮気相手役である女優グレン・クローズの迫真の演技もあって当時大いに話題になり、若い女性向けドラマで人気の高かった脚本家・内館牧子をはじめこれまでいろいろなところで評論文を見かけることが多かった。大概は(浮気相手である)アレックスは人間として頭が悪いとか、仕事ばかりできても女性性が云々とかいう表面的でしかも見当外れの批評が多かったが、精神科医であるきたやまおさむ氏が『みんなの精神科』(講談社プラスアルファ文庫)で書いておられる文章は、さすが臨床をやってきた実践家であるだけあって、ずっと包括的で本質を突いたものを書いている。少し長いが、その章の概要を引用する。
映画『危険な情事』では、一夜を共にした男女が、男は浮気と思い、女は男の家庭を崩壊させたいと思います。そして、女は男にしつこくつきまとい、異常ぶりをエスカレートさせていきます。(中略)
このストーリーを知って一番最初に頭の中に浮かんだのは、安珍(あんちん)と清姫(きよひめ)の物語です。これは主人公の坊主安珍が、恋の執念に燃えて蛇に変身した清姫に追いかけられて、道成寺の鐘の中に逃げ込むのだけれども、彼女の嫉妬の炎で鐘もろとも焼き殺されてしまうという、いわゆる道成寺ものの話なのですが、このような約束を果たさない男に対して女が一方的に恋に狂って、どんどんエスカレートしていくという物語は昔からあるのです。
『危険な情事』は上田秋成『雨月物語』の中の「蛇性の淫(じゃせいのいん)」とそっくりですが、秋成の場合、最後に男が殺される他の道成寺ものとは違い、男が化け物となった女を取り押さえて終わるのです。
歌舞伎の世界では、江戸時代にこの道成寺ものの上演回数が極めて多かったことや、現在でも踊りが残っているところから見ても、何処からともなく忍び寄ってくるアレックスのような女性に対しては手をつけないほうがいいという話は、今も昔も、誰もが好きな話だとわかります。
ところで結論から先にいうと、僕はこの映画で描かれている物語は、主人公の男のパラノイア、妄想だと思います。主人公が宗教人である道成寺ものは、坊さんは自分の性欲をおさえなくてはいけないから、周囲の女が自分を誘惑してくるように見えてしまうという解釈をすれば、これは見事にパラノイアの構造をもっていることがわかります。
そしてこの映画も同じことです。つまり映画の中では、一見女が狂っているようだけれども、これは全て男がありもしないことを空想しているだけで、自分の中の罪悪感や欲望、切り捨てられない狂気がああいう女をつくり上げていて、実際には男のほうが発狂しているのです。
仕事を充分こなし、適当な収入があって、ひとりで暮らしてきた自立した女性が、たまたま一夜寝ただけで急に変わってしまうなんて現実にはあり得ないことで、そんな女性は男の心の中以外にはどこにもいません。あのように恋に狂ってしまう女だったら、もうとっくに適当な男と結婚してベッタリとくっついているはずで、このことからも男のパラノイアであることがわかります。
男が冷静になればなるほど女が狂っていく、男が幸せであろうとすればするほど女が破壊的になっていくという部分で、男性は浮気は怖いと思うかもしれません。しかし、女性はそういう道徳的な感想をもつより、むしろいったん火がつくと捉えどころがなく燃え上がってしまいます。こういう狂気に対して、男は怖いと思うだけで、それは一連のお化け映画の常套手段なのです。
私たちは、自分の中の狂っている部分を切り捨てて、正常でいようと努力しながら日常生活を営んでいるのです。しかし狂気は突然空から降ってくるものではなく、自分の中にあるのですから、ちょっとしたきっかけでそれは顔を出し、一度出てくると逃げても逃げても追いかけてくるのです。
アレックスは的確にダンの居場所を突き止めて、ダンの一番の弱点を突いてくる。そんなにもダンについてよく知っているのは、追いかけるアレックスが、ダン自身の中にいるアレックスだからなのです。
ダンが一番自覚できないところは、その一夜の情事ではなくて、その後の思い込みにあります。いろいろな事件が起こるけれども、最後の場面以外では実際にアレックスが手を下したシーンは全くないし、その最後の部分、彼女がナイフをもって浴室に入ってくるシーンにしても、それまでの現実的な描き方から急にオカルト的な手法に変わっている。つまりアレックスがやってくるかもしれないという自分たちの恐怖から出る行動が事件を引き起こし、最後には幻覚である亡霊をつくって部屋の中に呼び入れているわけです。
観客はダンのパラノイアにひきずられて、全てアレックスがやったことだと思い込んでしまうし、映画はそう作らないと私たちにはウケないし、そのことに気がつかないから怖いわけです。
道成寺伝承のような、最後に男のほうが殺されてしまう、つまり正常が狂気に乗っ取られてしまうという、『危険な情事』よりもっと怖い話があるということは覚えておいてほしいと思います。また、ヒッチコックだったら、最後にダンが精神鑑定を受ける場面を入れたりして、もっとうまく本質を匂わすと思いますが、とにかくこの類の物語は、表面的には女は怖いということを語っているようだけれども、本質は、いつどこから襲ってくるかわからない狂気に対する正常人の心の不安を突いているのです。
そういう意味で、この映画は他のお化け映画と何ら変わらないのだけれども、評価できる点はその終わらせ方ですね。
『危険な情事』では、結局男はその女を殺せなくて、最後は男の正妻が手を下すわけで、僕の今まで知ってきたパターン、男が化け物を殺すか、それとも殺されるかの、そのどちらとも違います。しかし男が闘おうと女が闘おうと、それを取り押さえないと現実は正常に運行していかないということを描きだしているという点では全く同じです。
「女、特にひとり暮らしの女は性的に飢えているから手を出すと怖い」
これは昔から言われている「女は怖い、女は淫乱、女は何をしでかすかわからない」ということの繰り返しで、それは男性のパラノイア、よって、女を悪者に仕立てあげることで自分の性欲をコントロールしようとしている心理なのです。
女性が純潔を守るために、男は狼だと言うのと同じで、異性を悪魔に仕立てあげて殺している限り、次々と悪魔は出てくるわけで、アレックスをやっつけて、これで一件落着と安心して映画を観終わることはできないのです。問題は、私たちの中に棲む狂気をどうするかなのでしょう。
この映画は表面的には、1人の男性を巡る2人の女性の物語であるが故に、既婚女性と未婚女性では鑑賞後受ける感想も、2種に分かれるのではあるまいか。
既婚女性にとってこの映画から受けるメッセージは「やはり何だかんだいっても、男は妻のもとに戻ってくる。法律に基づく結婚は強いのだ。・・・でも部屋を汚すだんなや子供のことなど考えずに、自由に仕事や遊びに飛び歩いたり、気の向くまま恋愛を楽しめる独身の人が羨ましい気もするかも」。
未婚女性は、実際には無理だとわかっていても、いやだからこそ、何もかも投げ打って恋に身を投じてみたいとも思う。だがそれは映画を観ているひとときの憧れ・空想であり、実際にそのように行動することはない。ちょうど既婚男性が時に「あーあ、俺の人生はこのままこの会社で勤めて、妻子を養って、課長になって終わるのか。若い頃抱いた、ミュージシャン(画家、シェフ、プロスポーツ選手・・・e.t.c.)になる夢を、中年になった今からでも選び直したいなあ・・・このまま家に帰らず、気ままに放浪できたら・・・」と空想したり、一杯飲み屋で同僚に愚痴ることがあっても、実際に行動化する人はほとんどいないのと同じである。
「あのように恋に狂ってしまう女だったら、もうとっくに適当な男と結婚してベッタリとくっついているはずで」という記述は、読者によっては得心がいかないかもしれないが、日々の臨床で診ていると実際に、きたやま氏の指摘が正しいことを感じる。つまり自分や相手の日常生活も社会生活も破綻するほどの行動化を起こしてしまう人はそれまでも1人できちんと生活を送れてこれていない。アレックスのような行動をする女性ならば、たとえダンに会った時点で独身であったとしてもそれまで何度も結婚離婚をしていたり、ほとんど切れ目のない婚外恋愛を繰り返してきているはずで、そういう人はやはり一貫したキャリアを積み上げるのは困難であろう。
余談だが恋愛映画や小説で、主人公(特にヒロイン)が成熟した人格(パーソナリティ)であるものは稀少である。大部分は境界性人格障害、自己愛性人格障害などの、感情の振幅の激しい(stormy)な性格である場合が圧倒的に多い。恋愛は一種の盲目状態だから、その異常に「酔った」心的状態に熱中できる、すなわち「恋に殉ずる人」のほうがドラマになるのである。
書いた人 浜野ゆり : 2005年07月06日 17:01
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