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器量
2005年07月03日
人間――ここでは社会人となった大人を指すのだが――の器量は、その人が他人の上に立った時に出るものだなとつくづく思う。
社会に出たて、まだ下っ端の時は上司のいうことを理解し忠実に実行するとか、遅刻しないとか、そういったごく基本的なことが問われる時期である。この期間に必要最低限のことを行なうのがやっと、上司・先輩の情けでようやく人並みに社会生活を送れていたような人も、何年か経つと後輩を持ち、やがて中間管理職になる(平成の大不況を経たこれからの時代はそうならない例も増えようが、今のところ年功序列が幅を利かせている職場はまだ多数あるだろうから)。そのように人を指導する立場になった途端、豹変した例をいくつか見て、驚いたことがある。
自分は脱落寸前だったのに、あるいはいかにして上司の目を盗み少しでも楽して得しようとしてきたかを忘れたごとく、部下には1から10まで模範的であることを求め、少しでもそれが達成されないと厳しく責める。まあ逆に、自分が以前、表向きは従順だが腹の中では不服従だったからこそ、部下が信じられず、外側から締め付けたくなるのかもしれないが。つまりは本人自身の不安によるものなのだろう。
部下育て、弟子育て、子育て、全てに共通することは、後に続くその者達を自分のコピーや手先にすることではなく、各自の人格がその特長を保って発達していけるようにしてやることであろう。それは1つには自分が先達として道をつけ、そこに導いてあげること、そして社会で(あるいは専門家の場合、その専門分野で)独り立ちして生きていけるよう必要なスキルを教えてあげることであろう。
例えば子供にまず教えるべき核心の部分は「自分の身を危険から守れること」「公共場所で他人に迷惑をかけないこと」である、と犬養道子氏は著書に書いていたが、私もその通りだと思う。彼女曰く「そういった本質さえ押さえられていれば、あとのこまごまとした問題、物事の行ない方が親のやり方や価値観と違っていたとしてもいちいち目くじらを立てなくて良いことがわかる」。私はこのシンプルな一条のお陰で、後輩達の指導もずいぶん気楽になったものだ。
それに、嫌な上司や頭痛の種となる部下に繰り返し出会うときというのは、自分自身の中にそれに関連する問題がある場合が圧倒的に多い。自分の見たくない点、思い出したくない部分を刺激するからこそ、相手を忌み嫌い、過剰に反応してしまうのだろう。だからそういう時には「あの部下のどこがそんなに嫌なのか?」を考え、それが自分のどんなコンプレックスを刺激するのか検討してみる必要がある。自分でもうすうすは気づいているが、ないことにしておきたいものを、相手がいつも突っ込んで来るので嫌だ、ということは多い。
また、じっくり自分の記憶を探るうちに、今回の悩みの発端になった昔のエピソードが出てくることもある。その時の相手は親だったり、子供時代の友人かもしれない。つまりはその時の痛みの記憶が、今日似たような相手や状況に出会った時、無意識裏に湧き上がり、あたかも目の前の相手が昔自分を傷つけた当人のように反応してしまうのである。
人間関係とは結局、相対的なものである。自分の中に全く存在しない因子に関しては、他人は影響することができない。家族や友人、同僚も含め、何故自分はその人達と出会い関わることになったのか、自分の内面に照らして改めて考えることは、迷った時の指針になることだろう。
(2004年)
書いた人 浜野ゆり : 2005年07月03日 09:01
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